古びた書店。 土曜日の夜、珍しく奥井さんから電話があった。一週間前から言っていた書店に行く約束のことだった。「明日のデート、一時に駅前ね」それだけ言うと、奥井さんは電話を切った。 奥井さんはあまり電話が好きではない。電話をかけるのはもっぱら僕からで、たまにかけてきたと思ったら言いたいことだけ言うといつも『では』と切ってしまう。 僕としては不満なんだけど、奥井さんにそれを言ったところでどうなるわけでもないだろう。本音は、そんなことを言って僕が奥井さんに夢中なんだと知られるのが気恥ずかしいからなんだけど。 翌日、僕は待ち合わせの20分前に駅についた。いつも奥井さんが先に来るから、今日は奥井さんより先に行って驚かせてやろうと意気込んでいたのだけれど、奥井さんはすでに駅前にいた。 2つ並んだ自動販売機の横にちょこんとしゃがんでたばこをふかしている。時折傍らに置いてある空き缶に灰を落としながらぼんやりと人の波を見つめている。 僕はそろそろと近付いていってすぐ横にしゃがんだ。奥井さんはなかなか気付かない。たばこの灰を空き缶に落とそうと視線を移したところでようやく僕に気付き、奥井さんは驚いてのけぞった。さらに、のけぞった拍子にたばこの灰が落ちて二重に驚いた声を出した。僕は思わず笑ってしまった。 「いつからいたの」 奥井さんは空き缶にたばこを潰して入れながら目を丸くする。 「ついさっき」 「声かけてよ。びっくりするじゃないか」 「奥井さん、早いね」 「弘恵くんこそ、どうしたの。まだ15分もあるよ」 奥井さんは腕時計を見て、また驚いた顔をした。さっきのぼんやりした顔が嘘みたいに、目がきょろきょろ動いていて面白い。 「そんなに驚かなくても。奥井さんがいつも早いから今日は僕が早く行って驚かせてやろうと思ったんだよ」 僕の言葉に奥井さんはようやく笑顔を見せた。そして「それなら、12時には来ていないと駄目だよ」と言った。驚いて聞くと、奥井さんは12時10分過ぎには来ていたと言う。 「だったら待ち合わせを早くすればよかったのに」 「僕は弘恵くんを待ちながらぼーっとたばこを吸うのか好きなんだよ」 不意打ちのようなその言葉に僕は思わず顔を赤らめた。奥井さんはまた笑った。 奥井さんは立ち上がると、灰皿に使っていた空き缶を『かん』と書かれた丸い穴の中に入れた。空き缶はからんと音をたてて吸い込まれていった。 僕たちは並んで歩き出す。 「奥井さんがたばこ吸ってるの初めて見た」 「そりゃあ、弘恵くんの前では吸わないから」 「どうして」 「君は未成年だし、たばこは体によくないからね。学校で習っただろう。主流煙より副流煙の方が体に悪いんだよ」 自分のことを棚にあげて、教師みたいなことを言う。でも、ちょっと嬉しかった。 奥井さんは青いパーカーの上に淡い深緑色のナイロンのジャケット、下はジーンズと言うラフな格好で、それがまたとても似合っていた。後ろから見ると青いパーカーのフードがジャケットからひょっこり出ていて、僕は手を突っ込みたくなった。 「弘恵くんにはいけないところを見られちゃったなあ」 奥井さんはぼんやりした口調で独り言のように呟いた。 「奥井さんの滅多に見られないところが見れたなぁ」 真似して返すと、奥井さんは声を出して笑った。 奥井さんはお店の場所が頭に入っているのかどんどんと歩いていく。僕は横をくっついて歩きながら、時々「そこ左」と言われて慌てて曲がる。 しばらく歩いて、奥井さんはふらりと古びた書店に入って行った。 中に入ると左右にうずたかく本が積まれている。左側に本の山に隠れるようにしてカウンターがあり、眉間に皺を寄せながらじっと新聞を眺めているおじさんが座っていた。店内にはラジオがかかっていて、まばらに人もいる。 奥井さんは本がいたる所に積まれている狭い通路を器用に進んでいく。詰まれた本の中にはビニールの紐で縛られているものや色褪せて変色しているものなど、売っているものなのかと疑ってしまうような本もある。一番下にある本は一体どうやってとるんだろう。ぼんやりと考えながら奥井さんの後をついていく。 奥井さんは並べられた本に夢中で僕の存在なんか忘れてしまっているみたいだ。 「奥井さん」 声をかけてみるが、答えはない。仕方がないので僕は僕で店内を見て回ることにした。 狭い店内には様々な本が並べられ、詰まれ、立てられている。よく見ると最近の本や漫画にはちゃんとビニールがつけられているのがわかった。値段も高い。 今日、書店にやって来た理由の一つには学校で出された課題の本を探すためであった。僕は辺りをきょろきょろと見回し、表紙が取れかけている古い本を手に取った。ぱらぱらとめくっていると古い本独特の臭いが鼻をつく。中は細かい活字が延々と並んでいて、小さな挿絵の一つもない。難しそうな本だった。一通りぱらぱらと目を通すと、ぱたんと本を閉じる。僕には到底読めたもんじゃないと思った。 すると、いつの間にか後ろにいた奥井さんがひょいと僕の手から本を抜き取った。しばらくじっと本を見つめていた奥井さんは顔を上げると「弘恵くんは歴史に興味があるの」と聞いてきた。 「ううん。ちょっと手に取って見てただけ」 僕が答えると、奥井さんはやっぱりと言うような顔をした。 「弘恵くんは漫画しか読まないもんね」 「漫画の方が面白いよ」 「本の面白さがわからないなんて、弘恵くんは人生損しているよ」 「なんか、おじいちゃんみたい」 「ひどいな。せめておじさんにして下さいよ」 奥井さんは大袈裟に眉を寄せた。そして、笑った。僕も笑った。 「そうだ。弘恵くん、これ」 奥井さんは手に持っていた本の中から一冊の文庫本を取り出し、僕に差し出した。その本は『まちあわせ』と言うタイトルで、表紙の中央には四ツ葉のクローバーのイラストが入っている。 「これなら本が苦手な弘恵くんにも読めるんじゃないかと思って。短いし読みやすいと思うよ」 「どんな話なの」 「うーん…簡単に言うと目の見えない女の子と泥棒の話かな」 「へぇ。面白いの」 「読んでみればわかるよ。僕と弘恵くんの好みが似てるかどうかね」 奥井さんはぱちりと片目を瞑ってみせた。 結局、奥井さんは本を3冊買い、僕は奥井さんが選んでくれた本を買って店を出た。 「奥井さん、選んでくれてありがとう」 「うん。読んだら感想聞かせてね」 「わかった。頑張って読むよ」 「弘恵くん、本と言うのはね、読むだけで空を飛べたり魔法が使えたり異世界に行けたりするんだよ。漫画だともう決まっている世界しか見られないけど、本は違う。読む人によってそれぞれ違う世界が広がるんだよ。弘恵くんも本の面白さがわかるといいね」 奥井さんが楽しそうに話すから、僕もなんだか嬉しくなる。奥井さんはほんとうに本が好きなんだなぁと思いながら、買った本を持つ手に少し力を込めた。 僕のために奥井さんが選んでくれた本。 そう思うと、読んでみようと気になるから不思議だった。 |
2005,01,24
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